「解のないことを考える」ことについて
学生時代を振り返ると、
特定の先生を慕ったことはなく、黙々と、淡々としていた。
学校は、好きでも嫌いでもなかった。
理由を考えると、
物事に対して「なぜだろう」と疑問を持つこともなければ、
「こうしたい!」という強烈な意思もなかったからだと思う。
教科書に書いてある内容は額面通りに捉えたし、
だから、小中高で先生にした質問回数は10回にも満たない。
つまり、「解のないことを考える」ということをしてこなかったのだ。
この事態に気づき始めたのは、大学時代だ。
実験の度に考察が必要で、解のない状況におげげと思ったし、
研究は粗末な思考でなんとか乗り切った。
さらに、自分のことについて考えるのも得意ではなく、
就職活動が上手くいかなかったのは今までも書いたとおりだ。
社会人になって、
ついに、解のないことを考える力がないことから逃げられなくなった。
自分たちの手で事業をつくるということは、解がないのが当たり前で、
その中でたった少しでも前に踏み出さなければいけない。
「あっているか分からない」「どこに向かったらいいか分からない」
といつまでも言っているわけにはいかないのだ。
ただ、おい、全然考えてないじゃん、自分!
一時期、毎日18:00-18:30まで「考える」という予定を設定していたくらい、
考えられていないことに真剣に悩んでいた。
今では、「解のないことを考える」とは、
持てる情報をテーブルに出しきって整理し、
要素と要素をつなぎ直すことなのではないか、
同時に、手元の情報を増やし続けることではないか、と思っている。
-- <解のないことを考えるステップ> --
- ホワイトボードか『あたまの中ノート』を準備する
- 今持てる情報をとにかく絞り出し、書きなぐる
- 全体を眺める
- 情報をつなぎ直す
※新たに得た情報・意見、あるいは習得した知識を加え、2~4を繰り返す
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たまに、私は、ミーティング中にホワイトボードにぐんぐん書き、
「おりてきたー!」と叫ぶときがあるが、
(叫んでおいて、空振りだったことは数知れずだが…)
頭はこんなかんじで動いている。
今ある数字を因数分解する。
一部をそれっぽい数字に変えたり、数字を外したしりして、
もう一度かけ合わせたらなんかいいかんじの数字になった!的な。
伝わるだろうか、このかんじ。
※あたまの中ノートの起源